
障害があっても人間としての尊厳が守られ、人生を楽しむ手段が保証されるように
今回取り上げるのは『「車いすでも諦めない」国や薬品メーカーを動かして創薬、その先に…』です。
22歳で難病の遠位型ミオパチーと診断され、出産後に車いす生活になるも、デンマークへ留学、そして後に起業。バリアフリーマップアプリ「WheeLog! (ウィーログ)」をリリースし、アプリのコンセプト「車いすでも諦めない」という言葉通り、世界を視野に活動する織田友理子さんの記事に感銘を受けました。
記事の中で非常に印象に残ったのは、「批判や不平不満だけでは何も解決しない。言うからにはちゃんと落としどころを見つけ、そこに到達するために何をすべきかと逆算して知恵を出し、行動しなきゃ何も改善しないし、制度を変えることもできない。人間がつくった制度は、人間が変えられる」という織田さんの言葉です。そしてまさにその通りの行動力で、治験や新薬認可までどんどん道を切り開いていかれた姿には頭が下がる思いです。
身内のことで恐縮ですが、今月82歳で天寿を全うした父は、同じく指定難病のパーキンソン病でした。発病から10年かけて徐々に症状が進行し、最晩年はパーキンソン病専門の施設で暮らしていた父の尊厳を守っていたのは、趣味で続けていた俳句です。2010年、2020年と2度に渡って句集を出版したばかりでなく、旅立つ直前まで同人誌への投稿も行っていました。
先日家族を代表して、施設の父の部屋の片づけに行ったときに目にしたのは、不自由さがうかがえる筆跡ながら、ノートにびっしりと書き記されていた俳句の数々です。パリ五輪をモチーフにした句も作っていて、選りすぐりの全10句をパソコンで清書し、同人誌の9月号に間に合うように印刷、送付していたようです。身体は不自由になってしまっていましたが、精神は自由なまま。現役時代に通信社の記者をしていた父らしく、時事ネタを取り入れることも忘れていなかった父の様子を伺い知ることができました。60代から本格的に始めた俳句が、父らしさや尊厳を守っていたのです。
「人の手を借りなければ社会との関わりも難しくなる現実に、自分の存在意義さえ失ってしまいそうでした」という織田さんの言葉がありましたが、そんな厳しい状況の中でも、自分らしさを失わずに人生が送れるように、様々な人たちの知恵を出し合って社会がよりよくなることを願うばかりです。